カテゴリ: 旅行ついでにサッカー観戦 in アジア

8/12()に、フクアリで開催されたジェフユナイテッド市原・千葉-松本山雅FCの試合を観戦しました。


現在、Jリーグでは、新型コロナウィルスの感染対策のために定められたガイドラインに従い運営されています。

観客数が制限され、座席は間隔をあけて割り振られています。マスク着用、検温、消毒が求められ、また飛まつや接触による感染を防ぐため、試合中の応援、大声を出すこと、ハイタッチ、タオルや旗を振り回すことなどが禁止されています。


そのような中で試合観戦したのは初めてでしたが、個人的には久々の試合観戦を楽しむことができました。運営の方々に感謝です。

新しい観戦スタイルによるメリットとしては、

・試合中の声が聞こえてくるのが面白い

・試合に集中しやすい

1人でも行きやすい

・トイレや売店が混まない

(売店は数やメニューに制限があります)

といった点が挙げられると思います。


駒沢オリンピック公園陸上競技場の真夏のデーゲームなど、周りに観客がいない試合観戦の経験はそれなりにあったのですが、サポーターの応援がないというのは、それとはまた全然違う雰囲気でした。試合中の選手の声が本当によく聞こえます。

ジェフのGK新井章太選手やCBの増嶋竜也選手の声が目立っていたのを見ると、声で味方を鼓舞したり安心感を与えられるベテラン選手の存在は重要だと思いました。


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試合は3-0と、ジェフが勝利しました。

佐藤寿人選手が先制点、増嶋竜也選手が2点目、3点目を挙げ、30代の経験豊富な選手が目に見える結果を残しました。ベテランの選手に限らず、ジェフの選手は全体的に良かったと思います。

一方の松本山雅FC4連敗中ということもあってか、全体的にあまり噛み合っていない印象でした。イージーミスも散見されて、今は我慢の時なのかなと。。


今シーズンから就任したヨン・ジョンファン監督のサッカーは、わかりやすい。リトリートによる堅守速攻は、先制すると威力抜群ですね。

シンプルに前線にロングボールを放り込む場面が多かった中、FWの櫻川ソロモン選手は存在感がありました。190cm86kgという恵まれた体格で、空中戦に強く、ポストプレーヤーとしてしっかり機能していました。

今年84日に19歳になったばかりの新人選手ですので、洗練されていけば、将来が楽しみです!

過去の記事で、UEFA(ヨーロッパ)CONMEBOL(南米)のサッカークラブについて、ランキングデータを使って各国の勢力図を紐解いてみました。

今回は、AFCのクラブランキングを使って、アジアのサッカークラブの勢力図を見てみようと思います。


<AFCのクラブランキングとは>

AFCはアジアサッカー連盟の略称で、アジアの各国・地域協会を統括する、国際サッカー連盟(FIFA)傘下のサッカーの大陸連盟である。195458日に設立され、事務局の所在地はマレーシアのクアラルンプールにあります(ウィキペディアより)

AFCクラブランキングは、加盟協会に所属するクラブチームのランキング。当季と過去 4 季のAFCチャンピオンズリーグ、AFCカップにおける成績から算出されます。


<AFCクラブランキング>

今回は、アジアにおけるJリーグの位置付けをわかりやすくするために、2014年から2020年の7年間のAFCクラブランキングの推移を見てみようと思います。


まず、日本は緩やかにランクアップして2020年は1位になりました!

2017年は浦和レッズ、2018年は鹿島アントラーズが優勝するなど、近年の好成績がにより少しずつ順位を上げていきました。

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2020年の上位10か国の推移を見ると、順位は変動しており、まだまだ突出した国はない、群雄割拠の状態と言えそうです。

カタール(20149→20204)、タイ(13→7)の躍進も目立ちます。

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また、トップ10圏外では、北朝鮮(201431→202011)、タジキスタン(28→12)、フィリピン(27→14)、トルクメニスタン(30→16)が急浮上しています。

あまりピンと来ませんが、今後存在感を強めてくるかもしれませんね。

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一方、オーストラリア(20146→202015)、バーレーン(16→27)、ミャンマー(21→28)、オマーン(14→29)、クウェート(11→31)は大きく順位を落としています。

オーストラリアはアジア屈指の強豪ですし、ナショナルチームは、アジアカップやワールドカップ予選などで戦う国が多いため、クラブチームレベルの順位下降は意外にも思えます。

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上位も下位も、ヨーロッパや南米と比べるとまだ変動が大きい大陸のようなので、今後の動向も気になりますね。

ちょくちょく、世間的な知名度は高くなかったとしても、確かな足跡を残したJリーガーについて紹介する「元Jリーガーの記憶」。

今回は、選手としてだけでなく、引退後は監督としても活躍している長谷部茂利さんです。

<経歴>

桐蔭学園高校

中央大学

ヴェルディ川崎(19941997途中)

川崎フロンターレ(1997途中〜)

ヴィッセル神戸(19982000)

ジェフユナイテッド市原(20012003)


<ポジション>

ミッドフィールダー

(ボランチ、攻撃的MF)


<年度別出場試合数>

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1994年のヴェルディ川崎に入団した当時は、ラモス瑠偉、ビスマルク、北澤豪、柱谷哲二など錚々たるタレントが中盤に揃っていました。そんな中でもルーキーイヤーから20試合に出場します。


ヴィッセル神戸では背番号10を付け、2000年までの3シーズンにわたり活躍。

19992ndステージと20001stステージでは、J1でのクラブ最高位となる7位躍進に貢献します。


2001年から2003年まではジェフユナイテッド市原に所属。

個人的には、2001年のジェフでの活躍がとても印象深いです。

2000年まで残留争いの常連だったジェフが、2001年シーズンを前に主力が大量に流出。

2001年シーズンは、かなりの苦戦が予想されていました。

そんな中、長谷部選手は、ベテランらしく堅実で安定感のあるプレーにより、チームに落ち着きを与え、

チェ・ヨンスら新加入選手とともに、20001stステージ2位という大躍進の原動力となりました。


ジェフのハイライトシーンというと、

2003年からのイビチャ・オシム監督時代を挙げる人が多いですが、

「予想外の大躍進」という意味では、2001年シーズンの方が上かもしれません。


ヴェルディ川崎で優勝争いを経験し、

ヴィッセル神戸ではスタメンに定着し残留争いを経験し、

ヴィッセル神戸とジェフ市原時代にはチームの躍進にも貢献。

テクニックのあるセントラルMFというだけではなく、

キャプテンシーや献身的な姿勢が、

各クラブでの出場機会確保につながったのだと思います。

そしてその経験が、他クラブへ移籍する際の「武器」となったのでしょう。


指導者としても、水戸ホーリーホックを監督として率い、2019年に7位まで引き上げるなど、実績を上げ始めており、今後が楽しみです。

ちょくちょく、世間的な知名度は高くなかったとしても、確かな足跡を残したJリーガーについて紹介する「元Jリーガーの記憶」。
今回は、Jリーグ参入当初のヴィッセル神戸と、
2000年代前半のアビスパ福岡で活躍したストライカー、江口倫司選手です。


<経歴>

関西学院高等部

ヴィッセル神戸

アビスパ福岡


<ポジション>

ストライカー

(攻撃的MF)


<年度別出場試合数>

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ヴィッセル神戸のJ昇格初年度である1997年に、苦しむチームを救った現役大学生(関西学院大学)Jリーガー。

1998年・1999年は得点から遠ざかるものの、

ピッコリ監督が自ら獲得に乗り出し、2000年にアビスパ福岡へ移籍します。

2001年には残留争いのクライマックスの時期に活躍しますが、クラブは残念ながら降格してしまいます。

2002年はJ2でエースとして活躍し、アレン選手とともにチーム内得点王になります。

呂比須ワグナー選手のラストゲームとなった天皇杯で、アクロバチックなビューティフルボレーを決めたのが印象に残っています。


得点感覚に優れたストライカーで、

182cmの身長を活かしたヘディングやポストプレーをすることもできれば、

衛星のように動き回るプレーもできました。

前線からの果敢なプレスでも貢献しました。


『一芸タイプ』というよりはバランスのとれた選手のためか、

シーズン中盤から後半にかけて出番をつかみ、活躍するケースが多かったように思います。

開幕からFWの軸に据えてフル稼動するシーズンももっと見たかったです。


26歳の若さで引退を決めた理由はわかりません。ただ、J2クラブが大幅に増え、J3まで拡大した今のJリーグであれば、本人が望みさえすればまだまだ活躍できた選手だと思います。

ちょくちょく、世間的な知名度は高くなかったとしても、確かな足跡を残したJリーガーについて書きたいと思います。

今回ご紹介したいのは、1995年から2005年にかけて活躍した右サイドのスペシャリスト、安藤正裕選手です。

<経歴>

越生高

国士舘大学

清水エスパルス(19951999

ジュビロ磐田(19992000

横浜Fマリノス(2000途中)

大宮アルディージャ(2001J2

ガンバ大阪(2002

ベガルタ仙台(2002途中)

大宮アルディージャ(2003J2

京都サンガ(2003途中)

大宮アルディージャ(2004J22005


<ポジション>

右サイドバック、ウイングバック、サイドハーフ


<日本代表>

1試合0得点

1999年コパ・アメリカ パラグアイ戦)


<年度別出場試合数>

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システムによって、右サイドバック、右ウイングバック、右サイドハーフ、とポジションは変わりますが、

右サイドを主戦場とする選手で、抜群のスタミナを活かして、ひょうひょうとアップダウンを繰り返します。

長友選手のような『ガツガツ』という感じとは違い、スルスルっという感じで攻め上がってきます。


そして、とにかくクロスが正確で、バリエーションも豊富でした。

個人的に印象深いのは、19981stステージ最終戦のアビスパ福岡戦での先制アシストです。

チームが尻上がりに調子を上げ、優勝の可能性がある中での試合だったのですが、

この試合で均衡を破ったのは、安藤選手のセンタリングでした。

ボールをすくうように上げたクロスがファーサイドの長谷川健太選手にどんぴしゃで合ったものでした。

意表を突かれた相手選手の動きが止まってしまったのをよく覚えています。


また、静岡県のライバルチームであるジュビロ磐田に移籍して迎えたチャンピオンシップ第1戦では、

中山雅史選手の先制点をアシストしています。

中山選手のダイビングヘッドも見事でしたが、右足のアウトサイドで合わせたアーリークロスは芸術的ですらありました。


特に1997年~1999年のシーズンでは、安藤選手のクロスから多くの得点が生まれました。

しかも、貴重なゴールを呼び込むものが多くありました。

1998年に当時ユースだった市川大祐選手が日本代表に抜擢されて話題を呼びましたが、

右サイドの不動のレギュラーは安藤選手でしたし、

その市川選手を左サイドに回すほど、右サイドにおける安藤選手の信頼は高いものでした。

トルシエ監督時代1999年には日本代表にも選出され、

コパアメリカのパラグアイ戦では代表キャップも記録しています。


大宮アルディージャでは、右サイドハーフとしてより攻撃的な役割を担うことが多く、

チームの顔と呼べる選手になっていました。

悲願のJ1昇格を果たした2004年シーズンは、クロスだけでなくプレースキックからもチャンスを演出しました。


右サイドのスペシャリストとして、

残留争いをしていたり、右サイドの人材難に苦しむチームのピンポイントな補強として白羽の矢が立つことが多く、

結果的に7つのクラブでプレーしました。

決して派手な選手ではありませんが、武器を持った好選手だったと思います。

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