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ちょくちょく、世間的な知名度は高くなかったとしても、確かな足跡を残したJリーガーについて紹介する「元Jリーガーの記憶」。

今回は、選手としてだけでなく、引退後は監督としても活躍している長谷部茂利さんです。

<経歴>

桐蔭学園高校

中央大学

ヴェルディ川崎(19941997途中)

川崎フロンターレ(1997途中〜)

ヴィッセル神戸(19982000)

ジェフユナイテッド市原(20012003)


<ポジション>

ミッドフィールダー

(ボランチ、攻撃的MF)


<年度別出場試合数>

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1994年のヴェルディ川崎に入団した当時は、ラモス瑠偉、ビスマルク、北澤豪、柱谷哲二など錚々たるタレントが中盤に揃っていました。そんな中でもルーキーイヤーから20試合に出場します。


ヴィッセル神戸では背番号10を付け、2000年までの3シーズンにわたり活躍。

19992ndステージと20001stステージでは、J1でのクラブ最高位となる7位躍進に貢献します。


2001年から2003年まではジェフユナイテッド市原に所属。

個人的には、2001年のジェフでの活躍がとても印象深いです。

2000年まで残留争いの常連だったジェフが、2001年シーズンを前に主力が大量に流出。

2001年シーズンは、かなりの苦戦が予想されていました。

そんな中、長谷部選手は、ベテランらしく堅実で安定感のあるプレーにより、チームに落ち着きを与え、

チェ・ヨンスら新加入選手とともに、20001stステージ2位という大躍進の原動力となりました。


ジェフのハイライトシーンというと、

2003年からのイビチャ・オシム監督時代を挙げる人が多いですが、

「予想外の大躍進」という意味では、2001年シーズンの方が上かもしれません。


ヴェルディ川崎で優勝争いを経験し、

ヴィッセル神戸ではスタメンに定着し残留争いを経験し、

ヴィッセル神戸とジェフ市原時代にはチームの躍進にも貢献。

テクニックのあるセントラルMFというだけではなく、

キャプテンシーや献身的な姿勢が、

各クラブでの出場機会確保につながったのだと思います。

そしてその経験が、他クラブへ移籍する際の「武器」となったのでしょう。


指導者としても、水戸ホーリーホックを監督として率い、2019年に7位まで引き上げるなど、実績を上げ始めており、今後が楽しみです。

ちょくちょく、世間的な知名度は高くなかったとしても、確かな足跡を残したJリーガーについて紹介する「元Jリーガーの記憶」。
今回は、Jリーグ参入当初のヴィッセル神戸と、
2000年代前半のアビスパ福岡で活躍したストライカー、江口倫司選手です。


<経歴>

関西学院高等部

ヴィッセル神戸

アビスパ福岡


<ポジション>

ストライカー

(攻撃的MF)


<年度別出場試合数>

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ヴィッセル神戸のJ昇格初年度である1997年に、苦しむチームを救った現役大学生(関西学院大学)Jリーガー。

1998年・1999年は得点から遠ざかるものの、

ピッコリ監督が自ら獲得に乗り出し、2000年にアビスパ福岡へ移籍します。

2001年には残留争いのクライマックスの時期に活躍しますが、クラブは残念ながら降格してしまいます。

2002年はJ2でエースとして活躍し、アレン選手とともにチーム内得点王になります。

呂比須ワグナー選手のラストゲームとなった天皇杯で、アクロバチックなビューティフルボレーを決めたのが印象に残っています。


得点感覚に優れたストライカーで、

182cmの身長を活かしたヘディングやポストプレーをすることもできれば、

衛星のように動き回るプレーもできました。

前線からの果敢なプレスでも貢献しました。


『一芸タイプ』というよりはバランスのとれた選手のためか、

シーズン中盤から後半にかけて出番をつかみ、活躍するケースが多かったように思います。

開幕からFWの軸に据えてフル稼動するシーズンももっと見たかったです。


26歳の若さで引退を決めた理由はわかりません。ただ、J2クラブが大幅に増え、J3まで拡大した今のJリーグであれば、本人が望みさえすればまだまだ活躍できた選手だと思います。

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